1.渡口真清(昭和40年9月~昭和48年3月)
2.山本達人(昭和48年4月~昭和51年3月)
3.平山清武(昭和51年4月~昭和53年3月)
4.知念正雄(昭和53年4月~昭和55年3月)
5.平山清武(昭和55年4月~昭和57年3月)
6.山本達人(昭和57年4月~昭和61年7月)
7.宮里義弘(昭和61年8月~昭和63年12月)
8.知念正雄(昭和63年12月~平成8年6月)
9.大宜見義夫(平成8年7月~平成12年6月)
10.野原 薫(平成12年7月~平成18年6月)
11.具志一男(平成18年7月~平成26年6月)
12.呉屋良信(平成26年7月~平成30年7月)
13.上原弘行(平成30年8月~令和3年5月)
14.浜端宏英(令和3年6月~
沖縄県の小児医療についての参考文献です(その2:平成16年以降、はPDFをダウンロードしてください)
(その1)
沖縄の小児保健 第32号 別冊(平成17年3月)
「小児医療専門三団体、浜端 宏英」
小児医療専門三団体
小児医療専門三団体とは日本小児科学会、日本小児科医会、そして日本小児保健協会のことである。これら三者は小児保健・医療の中で共通の認識を持って取り組むべき事項について昭和60年より定期協議会を行っており、それは三者協と呼ばれている。日本小児科学会雑誌108巻(3)590:2004には、三者協での最近の討議事項が記載されており、簡潔にまとめてみると、
1.小子化対策(提言)
2.小児医療のグランドデザイン作成(小児科医会が中心)
3.はしか撲滅運動
4.小児救急医療体制の構築
5.三者協のホームページ
6.小児医療の診療報酬問題
7.こどもの心とからだを育むキャンペーン
8.テレビ、テレビゲームの弊害キャンペーン
9.喫煙の弊害キャンペーン
10.その他。となっている。
今回、それぞれの下部組織である県内の三団体について調べてみました。
【日本小児科学会沖縄地方会】
日本小児科学会は明治29年に創立され、平成9年には100周年を迎えた小児医学の総本山です。
その下部組織として沖縄地方会は年2回の例会開催が主な活動で、最近では10月に行われる「こども週間」も重要な仕事となっています。
会長は歴代の二人の琉球大学小児科教授が務めており、現在の太田孝男教授は第48回(平成11年)からの役職です。
事務局の琉大小児科医局には第5回例会からの資料は残っていましたが、それ以前についての詳細は不明でした。
沖縄県小児保健協会の2代目会長を務められた稲福盛輝先生(故人)は、沖縄県の医学史を研究、編纂し東恩納寛惇賞を受賞していますが、その著書のひとつ「沖縄の医学―母子保健編」に少し資料を見つけました。
最後尾にまとめられた母子保健年表には地方会は昭和42年の発足となっています。
丁度中部病院でインターン制度が開始された年です。
しかし年表の記載とは異なり、本文中の記述では地方会発足は昭和48年12月1日、初代会長平山清武教授となっており、第1回例会は昭和50年2月22日に開催され7例の報告があったと詳細に書かれています。
外間登美子先生にお聞きしたところ、第1回地方会は確かに平山教授の下で行われたと記憶しているとのことでした。
稲福先生の記述を重ね合わせてみますと、学会は42年に発足となりましたが、地方会例会は平山教授の就任まで待たなければならなかったことになります。
地方会例会は昭和57年より年2回開催されており、小児科の専門性を追求した学究的な会で、最近では外科の先生方の発表も多く、例会は活発になっています。
また演題希望が多くポスター発表を併設したり、年1回は懇親会(9月)を設けたりと、演題に時間を掛けながらなおかつ会員の親睦も諮るようにと会の運営も変化して来ています。
平成16年9月現在会員数は216名。太田孝男会長、安次嶺馨副会長以下幹事は18名となっています。
【沖縄県小児科医会】
日本小児科医会は昭和59年創設で、それまで各地にあった小児科医会が全国的な組織になったものです。
昨年20周年を迎えました。初代会長は「育児の原理」を著した内藤壽七郎先生です。
小児科学会が大学を中心とした学究的な会であるのに対し、医会は開業医が中心となった民間の組織として趣があり、小児医療全般にわたる医療体制の確立を目指しています。「小児医療の無料化」を押し進めたのはまさに医会の働きでした。
沖縄県小児科医会は県医師会の分科会のひとつとして昭和40年に活動を開始しています。
東京オリンピックの翌年で、1965年発足となり、今年で41年目になります。
平成6年に発行された沖縄県小児科医会報第13号は医会30周年記念誌となっており、歴代会長が記録されています。渡口真清先生(初代、故人)、山本達人先生(2代、6代)、平山清武先生(3代,5代)、知念正雄先生(4代、8代)、宮里義弘先生(7代)、大宜見義夫先生(9代)、そして現在の野原薫会長は10代目です。
先に挙げた「沖縄の医学―母子保健編」によれば、医会は昭和40年発足したのち、昭和42年地方会の発足とともに発展的に解散となり、昭和57年に山本達人先生を会長として再結成されたと記載されています。
再結成とされた時期は丁度山本先生が6代目の会長となった時期と一致しており、またそれまでの歴代会長の在職期間にも途切れはありませんので、医会は解散せず活動を続けていたことになります
。
30周年記念誌を読むと興味深い内容となっています。
玉那覇榮一先生の「2010年」当時から激変の時代であり、未来を語る識者や未来学者が居なくなり,代わりに玉那覇先生が2010年を語っています。
不透明な時代は現在も続いているようです。小児医療に目を向けると高良聡子先生の心の問題の指摘、大城隆先生の園医の問題、そして拙著「子供達は長生きできるか」など今読み返しても興味ある内容だと思います。
当時会長であった知念正雄先生は小児科医会の活動は小児科学会の学問的探求とは別に、小児科医のIdentityを求めたものと指摘しながらも、今後の小児医療は医療、福祉,保健の三つが統合し連携しなければならないと記念誌の巻頭に書いています。「沖縄県はしかゼロプロジェクト」での先生のご活躍の原点を見る思いです。
医会の会員は開業小児科医が多数を占め、幅広い研修を多く行っています。会員数は10年前の69名から90名に増えました。副会長は普久原朝政先生、泉川良範先生の2名で、理事の数は11名となっています。
この会は最近インターネットを利用したML(メーリング・リスト)が立ち上がりました。三つの団体の中では初めてのことです。今後MLを利用して、医会の活動も活性化されることでしょう。
【沖縄県小児保健協会】
日本小児保健協会は昭和8年に発足し、戦後昭和29年に再発足しています。平成16年は戦後の再発足から50周年になります。県協会については玉那覇榮一会長が「日本小児保健協会50周年記念特別号」に詳しく書いており参考にしました。
沖縄県小児保健協会は日本復帰翌年の昭和48年創設で、歴代会長は仲地吉雄先生(初代、4代,故人)、稲福盛輝先生(2代、故人)、佐久本政彦先生(3代)、知念正雄先生(5代)、そして小度有明先生(6代)が長く会長を務められた後に、今年から玉那覇榮一先生が7代目会長を務めています。
会の中心事業である乳幼児健診は医師として必ず小児科が参加し、歯科医師、保健師、栄養士、臨床検査技師などチームで行われており、沖縄方式と称される高い評価を受け、その功績から平成2年にエリエール賞、平成4年にはもっとも権威のある保健文化賞(第44回)が授与されています。
健診事業以外でも特筆すべき事は多いのですが、そのひとつに昭和57年に協会主催で開催された第29回日本小児保健学会が挙げられます。当時は沖縄県での全国規模の開催は珍しく、また大学以外の民間団体主催としては初めてでした。
しかし、当時から沖縄での開催は魅力的であったようで、全国から1663名の参加を得て、一般演題274題の大きな大会となっています。協会の20周年記念誌には学会を担当した当時の忘れられない思い出が語られています。
同学会は当初4代会長であった仲地吉雄先生のもとで開催される予定でした。ところがその準備の最中に仲地会長が急逝され(仲地先生はご開業後に医院を閉めて米国へ勉強に行かれたほどのすばらしい先生でしたが、持病の高血圧症があったようです)、急遽知念正雄先生が会長に指名され、学会開催を一致団結した協力で成功させています。
昭和57年にはインターネットもFAXもなかった時代です。本当に信じられないような会員、事務局の働きがあった事でしょう。
宮古・八重山地区の健診には厚生省・心身障害児研究班(平山宗宏教授班長)の力を借りて平成11年まで健診事業が行われていました。この健診には平山宗宏先生、高野陽先生、日暮眞先生、高嶋宏哉先生など著名な先生方が参加されていました。
復帰直後から最近まで県内小児科医が少ない時期にこのようなすばらしい健診事業が行われていた事も忘れてはなりません。
沖縄県小児保健協会は現在会員数421名、その中で医師109名、歯科医師10名、そのほか小児保健に関係する多数の職種の人々で構成され、理事・役員は23名、顧問2名となっています。
毎年5月頃沖縄県小児保健協会学会、1月には母子保健大会・保健セミナーを行っており、その他にも小児保健に関係する講演会などを適宜開催しています。
最近では「沖縄県はしかゼロプロジェクト」の事務局として重責を担っています。
追記:今回は沖縄県の小児医療専門三団体の歴史をまとめましたが、県内で活躍された明治時代からの小児科医については長田紀春先生の名著「福木の白花」に詳しく書かれています。
長田先生は平成14年に医院を閉めましたが「福木の白花」は先生が先の大戦で軍医として沖縄戦を体験し「ひめゆりの塔」となっている第3外科壕で九死に一生を得たこと、ご開業されてからは深夜に窓を壊して侵入してきた発熱児を抱えた父親の話(小児救急問題のはじまり)、そして沖縄県の疾病の歴史的な変化も知ることが出来るすばらしい本です。
閉院にあたり地域の皆さんからお別れ懇親会が催された話なども小児科医冥利に尽きると思います。40余年ご開業され、県内の小児保健・医療を見守っていらした長田先生のご著書は県内の関係者には是非読んでもらいたいと思いました。